此処までの道程
中学時代、洋楽の影響で外国に憧れを抱く。高専卒業後メーカーに入社し、品質部門の技術窓口として海外販社と交信する。後に技術コーディネーターとして、ニューヨーク、デュッセルドルフ、アムステルダムで勤務。合計7年間の海外生活で異文化コミュニケーションを身につける。 一時帰国の際、街を歩く人々の暗い表情に逆カルチャーショックを受け、閉塞的で生きづらい日本から逃げたくなる。間もなくして元同僚の自殺を知り、開放的で生きやすい社会にすることが日本の緊急課題と気づいてしまった。気づいた自分の役目を考えた末「ものづくり」から「まちづくり」への転身を敢行。格差社会の解消を目指す。 帰国後、インバウンド観光に携わる。北海道のニセコでコンドミニアムの運営や国内・海外プロモーション、リゾート地のまちづくり活動に関与。2011年、東日本大震災発生。故郷の壊滅的な風景に落胆するも、苦境で支えあう人々の姿に日本の底力を見る。この力を平時で発揮すれば生きやすい社会に変革できると確信し、衝動的に仙台に帰郷。 偶然関わった舞台芸術からまちづくりのヒントを得る。自由な発想を表現する"創作空間"と、弱者支援たる"福祉の仕組み"に着目し、障害者アートで先端を行く全国の福祉施設を視察調査。社会活動の普及には経済活動との相乗的な発展が必要と考え、消費活動で市民活動の財政支援を実現する寄付プラットフォームの事業化を模索する。 「何かを変えるには既存のモデルを時代遅れにする新しいモデルを打ち立てよ」というバックミンスター・フラーの提言に触れ、教育・防災・福祉の社会基盤で変革が必要と考え始める。起業家育成団体の運営に関わった後、障害者・健常者の相互関係を誘発するべく障害者支援団体で就労支援施設を運営中。 そのなかで生きづらさを抱える方々に多く出会う。物質社会の拡大が、他者比較で自尊心を満たす思想を根付かせ、ついに自分自身を愛せなくする風土を作ってしまったことに気づく。自己承認の文明開化。その手段を試行錯誤中。アナーキック・エンパシー、エチカ、人生論ノート、イデア論、愛するということ、善の研究、アランの幸福論、死に至る病… 未来志向で外に拡散するフラクタブルな組織構造を開発中。 すべては100年後のこどもたちが幸せになるために。 2023/1/2 竹樋秀康
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