とあるブログ記事
「国に騙された!」と叫ぶ無責任な人は、伊丹万作「戦争責任者の問題」を読むべきだと思うよ http://www.ikedahayato.com/20140708/9367655.html を読んで、まさにその通りだと思った。「国に騙された!」という姿勢は無責任で情けないと思う。 昔から、騙された、という言葉を聞くことはあっても、自分が発した記憶が全然おもいだせない。対象が国であれ友達であれ、騙されたという言葉に「危機を予測する労力を惜しみ、外部に依存していた自分を隠そうとする必死感」を感じてしまいます。 現実は、全てに対して依存せず、全てに対して自分で道を決めて貫き通すなんて不可能なことはわかってます。なので、ある程度世間の流れに乗らないと身がもたないことは認めます。ある程度ね。 その程度を超えて、大事な未来のことに目を向けず、頭も身体も使わずにただ漂流していたくせに、辿り着いた所に不満を言うなんて「そりゃ格好悪い」と思うタチです、自分は。だから口に出したくない言葉なんです。 未来に目を向けて、自分に何が出来るか考える。そして未来に向けて自ら行動すれば、予測される「障害」が自分の目的達成に向けた「課題」に転じるから、「騙された」という発言にはならないと思うのです。 振り返ってみると、2つの震災前後で時代が違う。
● 阪神・淡路大震災以前(〜1995) 人口増加時代、高度成長の追求、お金持ちになりたい、 遊びの探求、経済的人間関係、個人所有財産、楽して儲ける 決め台詞は 「こちとらボランティアでやってんじゃねーんだ!」 ● 東日本大震災以降(2011〜) 人口減少時代、持続可能性の追求、幸せになりたい、 生きがいの探求、志縁関係、共有財産、献身的に社会に尽くす 決め台詞は 「こちとら金儲けでやってんじゃねーんだ!」(言わないけどwww) そう思うのは自分だけだろうか? 少なくとも自分の意識はそう変わってきた。 自分は不可能な夢を持つのが好きです。夢をはじめから諦めるような言い方ですが、諦めません。自分が生きているうちに達成することが不可能なだけです。
自分の夢は、100年後の子どもたちに「あのころの日本人が頑張ったから、今の日本が在る」と思ってもらうこと。 のんびり過ごせば100年生きていけるかもしれないけれど、夢を追って頑張る自分はまず彼らには会えないでしょう。でも、実現不可能な夢に向かって全力で取り組めば、達成できなくても満足感を抱いて一生を終えると思うのです。そう思いつづけて四半世紀経ちました。 ここで「震災」について触れたいと思います。 阪神・淡路大震災が起きた1995年は、行政に頼りきらない市民社会が芽生えたボランティア元年と言われます。 社会を支える意思と覚悟を持って立ち上がる勇者が市民権を得た、歴史的に重要な時代のきっかけとなった震災だと思います。いまはかつてより市民活動が一般化して、ボランティア活動が20年前のように特別な勇者の仕業ではなくなった。身近な社会的課題の解決を図る市民が別格視されず、そういう人が居てもおかしくない風土になったのはすばらしい。 けれどもまだ、市民活動が社会の仕組みを変える所まで来ていない。折角ボランティア元年とまで銘打って、市民活動の重要さを自覚したのに、社会が大きなものに支配されている状況は変わっていない。この状況を見て、自分は阪神・淡路大震災を契機として創出された市民活動の舞台を無駄にしてはならないと思っている。それには今、すでに目覚めている人たちのパフォーマンスを高めるだけでなく、もっと目覚めた人を増やさないといけない。寝てる場合じゃないよって。 東日本大震災は100年後の教科書に載ることは間違いないでしょう。 100年後の先生や子どもたちは授業を通して東日本大震災がもたらした被害を学ぶでしょう。でも、それより注目されるのはその後の日本の盛衰だと思います。事実自分は関東大震災にしても太平洋戦争にしても、その瞬間の被害より災害後の社会変化に関心があります。それは自分だけではなく将来の子どもたちも同じはず。すなわち「自分達は100年後の子どもたちに見られている」と思うのです。日々の活動を。どのように日本の盛衰を左右していくのかと。 100年後の子どもたちに「あのころの日本人」と括られる人たちは、いま生きている人たち全員でしょう。阪神・淡路大震災と東日本大震災のせいで、いま生きている日本人みんなが「あのころの日本人」になってしまった。未来の人たちに注目される立場に置かれてしまった。望んでいなくても。みんなそういう運命なんです。 こうなると二十歳三十歳年齢が離れていたって関係ない。みんな「あのころの日本人」です。それがみんな本気で社会を変えようとするのなら、些末なことで気を止んでる場合じゃないと思うのです。年下のくせに失礼と嘆いたり、気に入る気に入らないの話をしたり、そんなこと100年後の子どもたちに何の意味を成すのでしょう?もし彼らがタイムマシンで現世に遡って僕らのそんな姿を見たら「あちゃー、ダメだこりゃ」と思うに違いない。そんなの嫌だし、本当に申し訳ない。 何も変化させず強者優位の社会を保つのも僕らだし、多様性を認める社会に変えるのも僕ら自身。100年後の子どもたちに「あのころの日本人のせいで、いまの日本が。。。」なんて言われたくない。そのために自分は、ずっと先を見据えて些末なことに時間をかけず、社会をグイッと変えることに注力したい。 年齢や立場など関係なく、日本の社会を良くする目標に向かって皆んなで本気で取り組んでいる姿を、世界にそして未来の人たちに見せつけたい。それが1000年に一度の大震災から得た契機を無駄にしなかった日本人のあるべき姿だと思うのです。 |